翠は、先生に呼ばれて職員室に向かう、かつての友達、玲子の背中を見つめながら、先週の出来事を思い出していた。
 
「ねぇ、翠、トイレに行かない?」
一時間目の休み時間、翠は友達の高橋優奈から声をかけられ、うん、と小さくうなづきながら、席を引き、もうひとりの友達、持田美紀といっしょに教室の後ろのドアに向かって歩いて行った。
 
優奈と美紀とは、玲子から離れた後、仲良くなったクラスメイトで、翠はいつも二人と一緒にいた。
休み時間が始まってすぐに、翠の席に二人が集まった。
 
「翠・・・どうしよう、これ、わかる?」
 
甘えた声で美紀が翠にすがる。翠はクラスの女子の中でも、一位、二位を争う成績で、一目置かれている。
一時間目の授業の最後に出された宿題を、次回美紀が代表として答えなければならなかった。
 
翠は、しょうがないなぁ、といいながら、適切にヒントやアドバイスを美紀に与えた。美紀も必死にメモを取りながら、わかった、やってみると言いながら、お礼代わりにポンと翠の肩を軽くたたいた。
そんなやりとりを、一歩引いて黙ってみていた優奈が、しびれをきらして、「トイレ行き」を切り出した。
 
優奈は、とてもおとなしくて、自己主張をあまりせず、でも人の話をよく聞いて、いつもニコニコしている、そんな優しい子だ。でも、トイレに行きたいって言うのもなかなか言い出せないようなところは、翠はいつも心配している。
 
早く行こう、もうこんな時間。
 
翠は腕時計を見ながら、優奈を先頭にして速足で歩かせ、教室と同じフロアの女子トイレに入った。
 
「じゃあ、お先に・・・」
と右手をすこしあげて翠にあいさつしながら、空いている個室に優奈が入った。
 
翠はそのとき、トイレの隅にいた、玲子と目が合った。
玲子は、聡子と由佳に囲まれていた。聡子は玲子の右手を掴んでいて、由佳はトイレの壁に手をかけて、玲子の行く手を阻んでいた。
なにより、その空間の空気が、ここで玲子に対する「いじめ」が行われていることを、翠は瞬時に察した。
 
たすけて。
 
玲子は私に対して、確かにそう言った。
口は何も動かしていない。玲子の目が、確かにそう訴えていた。
 
でも、でも・・・
翠は、視線を玲子からそらして、空いた個室に向かって歩いて行った。
 
翠は、用を済ませてからも、しばらくトイレの中でじっとしていた。
玲子や、聡子の声が聞こえる。
 
授業開始を告げるチャイムが鳴った。
ゆっくり扉を開け出てきた翠を、優奈と美紀が、遅いぞと文句を言いながら出迎えた。
そこには、もう玲子や聡子たちはいなかった。
 
手短に手洗いを済ませた翠は、二人と一緒に教室へと急いだ。
 
翠は、すべてわかっていた。何が、玲子に対して行われていたのか。
わかっていて、何もできなかった翠は、自分を責め、またそれでもよかったと慰める自分がいることに気が付いた。
 
こんなこと、ひどい。ひどすぎる。
でも、私もひどい。こんなこと、見過ごすなんて。玲子が我慢できなかったら・・・どうなっていたか・・・
 
玲子が授業中、恐る恐る手を挙げ、男の先生にトイレに行かせてくれるよう頼んで、翠はほっと胸をなでおろしていた。
ただでさえ、おとなしい玲子が、いじめられて気弱になっているのに、先生にトイレと言えるのか翠は心配していたからだ。
 
自分のしてきたこと、見過ごしてきたこと、逃げてきたことを振り返って、翠は放課後、担任の先生に相談することを心に決めた。
玲子に対する、「いじめ」の事実と、翠自身の懺悔のために。