見て、見ぬふり・・・
 
高校2年生の片山優香は、その光景を見るたびに、心にそう言い聞かせてきた。
 
同じクラスの田中由紀。
由紀は、今日も靴下のまま、教室に入ってきた。
 
他の生徒は皆、学校指定、学年指定の、緑色の縁取りが入った、バレーシューズを履いている。
 
イジメ。
 
由紀は、クラスぐるみのいじめに遭っている。
シカトに始まり、教科書、ノートへのいたずら書き。上履き隠し。
 
どれも、イジメの「主犯」は知っている。
由紀がひとりでトイレに行くと、由紀の席に3人が集まり、机の中を物色し、教科書やノートを開いては、持参しているマジックで何のためらいもなく、次々といたずら書きをしていく。
そのあと、元通りに机の中にしまい、何事もなかったかのようにその3人は由紀の席から離れていく。
 
先週の水曜日は、朝教室の隅に置かれている、筒状のゴミ箱に、噛み終わったガムを紙に包んで捨てようとしたとき、ゴミ箱の中に由紀の上履きが捨てられているのを見た。
振り返って自分の席に座っている由紀を見つけると、案の定、彼女は靴下のままだった。
 
それでも私は、見て見ぬふり、を貫いている。
 
いたずら書きされた教科書やノートを、由紀が見つけて動揺していても、靴下のままでトイレに行く時も、一言も声をかけなかった。
いや、かけられなかった。
上履きは、そのままゴミ箱の中に、他のごみに埋もれていって、掃除の時間にゴミ集積場に捨てられ処分されてしまったのだろう。
 
3時間目の休み時間。
友達とトイレに行って、用を済ませ「個室」から出たときに、由紀が、いつものいじめ主犯格3人に取り囲まれているのを見つけた。
 
やめて、もう、やめて…
 
蚊の鳴くような小さな悲鳴が、私の胸の奥をチクリと刺す。
それでも、見て見ぬふり。
心の中の小さな棘を、呑み込むようにして由紀から視線をそらし、洗面台で手を洗い、友達と一緒に女子トイレを出ようとした。その時。
 
もうやめて・・・我慢・・・できないから・・・
 
そのセリフが確かに私の耳に届いた。
 
次の4時間目の授業が始まると、私の席から左斜め前方向の先に座っている、由紀のことが気になって様子を観察することにした。
顔色が明らかに悪く、そして右手をおなかの下にあてがって、少し体を前かがみにしていた。
靴下のままの足元は、小刻みに震え、モジモジと足を交差させたり、また戻したりを頻繁に繰り返している。
 
由紀は、トイレを、我慢している。
 
トイレを出るときの、由紀のセリフから、すでにさっきの休み時間に相当トイレを催していたはず。
結局、いじめ主犯の3人組にトイレで用を足すことを許してもらえなかった。
 
かわいそう。由紀。
 
心の中に、また棘がささる。今度は少し大きな棘。
 
今、由紀が苦しんでいる理由を、私は知っている。
しかも、トイレに行きたいという生理現象を無理やり止められて、切迫している状況を知っている。
 
由紀は、授業中にトイレに行かせてください、と先生に言えるような性格の子では無い。
このままもし、「失敗」したら、彼女にとって取り返しのつかない傷を負ってしまう。
「失敗」したことで、なおさらイジメの「材料」になってしまうだろう。
 
見て、見ぬふり。
 
また飲み込もうとしたが、今日はまだ棘が抜けない。胸の奥が、痛い。
 
 
「…先生…あのぉ・・・田中さんがお腹を痛がっています。保健室に連れて行っても良いですか?」
 
私は、とうとう「吐き出し」た。本当の気持ちを。
先生は、由紀の様子を確認し、すぐに連れて行きなさい、と言ってくれた。
 
すぐさま私は由紀の席に向かい、苦しそうに立ち上がろうとした由紀の右腕をささえ、何も言わずに教室を出る。
 
「…か、片山さん…私」
 
「何も言わないで・・・トイレに行こう」
 
由紀の背中を軽くさすり、励ましながら女子トイレに向かった。
何とか失敗せずに用を足し「個室」から出てきた由紀は、私に軽く会釈した。
 
「…ありがとう…助かった…」
 
「ううん…いいの。間に合って、良かった」
 
由紀が、少しだけ笑ってくれた。
 
胸の痛みはもう消えていた。
いつもの、飲み込んだ後の気持ち悪さも残っていなかった。
 
(完)