「先生...」
突然、保健室の扉が開けられ、ひとりの女子生徒が立っていた。
保健室担当の橋本南は椅子から立ち上がってその女子生徒を確認した。

「先生、助けて...助けてください!」

その女子生徒は肩にかかる長さの髪は乱れて、走ってきたのか息が上がり、明らかに苦しそうな表情を浮かべていた。

「ど、どうしたの?」

助ける? 何かに、誰かから追われている?
状況が理解できない南は、女子生徒の肩に手を当て落ち着かせようとした。

女子生徒は言いにくそうにしていたが、切迫詰まっているのか、こう切り出した。

「先生、私、ト、トイレに行きたくて...」

トイレ?
苦しそうにしていたのはそのせいか、と南は思ったが、それなら早くトイレに行けばいいのに。助けるってどういう事?

「一緒に、トイレに来てもらえますか? お、追われてて...」

女子生徒は少しだけ振り返りながらも、下腹部に左手を押し当てて、脚を交差させていた。
まだ南には疑問符がたくさん残っていたが、トイレには待った無しの状況である事は理解できた。この子は今お漏らし寸前の状態で、何者かに追われトイレにも行けない状況で、困って保健室に駆け込んだ。

「早く、職員用のトイレがあるから、こっち」

南はその子の右手を握り、保健室を出て小走りに、約10メートル程先にある教職員用の女子トイレを目指した。

「私はここで待ってるから、早く済ませて」
その子は前かがみになりながら、何とか個室に入り用を足した。
余程余裕が無かったのだろう。乙姫を鳴らす事なく、勢いよくオシッコの流れる音が聞こえた。

「大丈夫だった?」

南は優しく声を掛けると、その子は軽く会釈をして答えた。言葉は出なかった。

「じゃあ、保健室に戻ろうか」

その子の肩に手を当てて、保健室へと促した。

南とその生徒は保健室に戻り、南は生徒をベットに腰掛けさせた。南は椅子をその子の前に移動させて、向かい合わせで座る。

「何があったか、話してくれるかな?ゆっくりでいいからね」
南は優しくな話しかけた。その子は少し間を置いた後、

「トイレに、トイレに行かせてもらえなかったんです」

と話し始めた。もうその時点で涙ぐんでいた。

「誰かに、意地悪をされたっていうこと?」

「2時間目が終わった後の休み時間に、トイレに行こうとしたんです」

南は黙って頷きながら聞いていた。

「そしたら、あの人達に囲まれて、女子トイレには一緒に入ったんですけど、私だけ囲まれて...用をたすことが出来なくて」

「そのまま教室に戻されて、3時間目の始まりのチャイムが鳴って...」

「まさか、3時間目の授業中、ずっと我慢していたの?」

「...はい。恥ずかしくて、先生に言えなくて仕方なく」

「それで、やっと授業が終わって、急いで教室を出ようとしたら、またあの人達が私を捕まえようとして、何とか走って逃げてきたんです。もし捕まっていたら、またトイレさせてもらえないじゃないかと思って。そしたらもう我慢出来なくて漏らしちゃうと思って...」


余程我慢していたのだろう、体が小さくふるえていたその子の肩や背中をさすることしか出来なかった。

「その人達って、同じクラスの子?」

南は背中をさすりながら聞いてみた。

声もなく、小さく頷いてその子は答えた。

南はようやく気がついた。
その子の足元、真っ白な真新しいバレーシューズの甲のところに、2-1 広井 と書かれていたことを。
さらにもう二つ、右側の上履きの、その広井という文字の横に、赤いマジックでクサイ、と書かれていて、左側のゴムバンドが片方切れていていることを。

広井さん。

イジメ。広井さんはいじめを受けている。
まだ真新しい上履きなのに、落書きや切られたゴムバンドが痛々しい。
恐らく、これが一度や二度ではない。
今回のようにイタズラされ履けなかなったか、隠されて見つからず新調したばかりなのに。

陰湿で、しかもトイレにも行かせてもらえない暴力まで受けている。

広井さんの小さな体が、まだ震えている。
「それは、ひどいわね...」

 女子生徒の手を優しく握りながら、お漏らしをしなくて良かったと思っていた。
 南は、女子生徒が履いていた上履きに視線を落とした。 2-4 河原 白い縁取りのバレーシューズに、女の子らしい字体でそう書かれているのを見て、声をかけた。 

「河原さん? ...上履き、新品のようだけど、最近買い換えた?」

 河原さんは、小さく頷いた。 
本当にすぐ見て分かるほど、真っ白で下ろしたてのの上履きだった。
今は11月で、生徒の多くは履き古した上履きを履いている。 
特段珍しいことでもないが、何か引っかかる。

 「どうして買い換えたの?」 

河原さんに聞いてみた。 
河原さんは、答えてくれようとして、南の目を見つめて、また視線を逸らした。 
やはり。 
南は確信した。 
トイレのことも、この新品の上履きも、いじめ。 
河原さんは、いじめられている。
 上履きは、誰かに隠されたか、捨てられて、新調せざるを得なかった。

 「上履き...これで、3回目なんです。買い換えたの...」 

可哀想に。 朝、学校に来て、靴箱を開けた時、上履きが無くなっているショックは、経験者でなければ分からないだろう。 
そう。南は学生の頃、いじめられていたのだ。 

河原さんのように、何度も上履きを隠されて、当てもなく探す時の虚しさや悲しさ、靴下のまま廊下や教室を歩かなければならない恥ずかしさ。 
通学靴まで隠されて、自分の名前を晒しながら、頼りない靴底のバレーシューズで電車にもバスにも乗らなければならない恥ずかしさ。 

そして、なによりも、また隠されるのではと不安になることが嫌だった。